友人知人から、カタカナの言葉で、人名だとか手技療法の名前についての質問を受けることが多いです。
「最近よく聞くけど、◎◎って何~?」「インターネットでちょっと調べてみたけどわからないので聞きたいんだけど・・・」「ブログとかフェイスブックページとかで簡単に説明する文を書いて~」
等々・・・。
少しずつ、知っている限りになってしまいますが、書いてみようかと思います。
そんなわけで、クリシュナムルティのことを書こうかな。
—————————————
著作を全部読んでいるわけではないですが、J・クリシュナムルティの著作、講義録が精神的な支えになっています。
比較的わかりやすく、特徴的なのは「瞑想」についてかな・・と思っています。
クリシュナムルティは生活スタイルなどにルールを作ることは無く、「上と繋がる(笑)」方法については語っていません。
グループを作ったり、マントラを唱えたりする必要はないし、何かを崇拝する必要もない。一般的に言われる「瞑想」とクリシュナムルティが言う『瞑想』は少し違います。
クリシュナムルティ自身が「崇拝」の対象になるのを嫌って、自分の宗教団体を解散していますし、自身の本すらも読むな・・というような表現のことも書き残しています。
そこがクリシュナムルティの論じていることをわかりづらくしているのかなぁ、わかりづらいから人気がないんだろうなぁと思っています。
「真理」は論じられているけれど、「どうしたらそこに行けるのか?」そこに行き着くための細かいタスクが全く設定されていないのです。
「Truth is a pathless land. (真理はそこに通ずるいかなる道も持たない領域である )」
なんて言っているだけあって、「自分で探して進め」ということなのだろうなと思います。
大方の人にとっては、「最初にこれをやる。2番目にこれをやる。3番目にこれをやる。・・・・そうすると、何か気づきがある」というような『手順、マニュアル、タスク』がある方が、わかりやすいですし、選べと言われると、そういう風なわかりやすい方法を選ぶと思います。
でも、与えられたタスクをこなすことが目的になり、それを達成することで満足してしまう人が多いからかもしれません。マントラを唱えたり、何か1点に集中する一般的な「瞑想」で忘我の境地になること・・・タスクをこなしてもこれでは「真理」にはたどりつけないでしょう、というのがクリシュナムルティの言うところ。
1つのことを細かく、いろいろな方向から考えたり、分析したりして整理していくと、頭の中が片付いている状態が当たり前の状態になり、結果、頭の中が静かになります。そして、頭の中に何もなくなる瞬間が生じてきます。これが『瞑想』。
何もせず、ただその場に静かににて、自分の体を抜けていく風、音、光を感じてみる。今に居る。これも『瞑想』。
こんな風にクリシュナムルティの言うことを理解しています。