きのこ展に行ってきました

筑波実験植物園で開催されていた、『きのこ展』に行ってきました。

毎秋に開催されていて、その時期は街中で横断幕やポスターをよく見かけるので、一度行ってみたかったのですが、これまでタイミングが合わず、今年やっと行くことができました。

kinoko-1

2011年から実験植物園内に生えているきのこを全部採集、1年間に1000点標本にするプロジェクトを進めているそうで、今のところ6837点だそう(DNAを調べるのが究極の目的だそうです)。

↓こんな風にして毎日着々と持ち込まれている模様。

kinoko-2

圧巻だったのが、第2会場に展示されているきのこ。

きのこが山のように積んでありました。1つ1つに、「食用OK」「有毒」「不明」のラベルが貼ってあるのですが、なんとまぁ、全体の9割はたぶん「不明」。

「有毒(黒地に天使マーク)」のラベルが付いたものの写真を撮っていたのですが、思ったほど多くありませんでした。

kinoko-12

確かに、誰かが食べて、何かが起きないと有毒かどうかもわかりません。

「『不明』が多くなるのも当たり前かぁ・・」などと考えながら、たくさんのきのこを拝見しました。

触ったり嗅いだりすることもOKでしたので、べたべた触りまくってました。^^

有毒なきのこでも、触っても大丈夫だそうで、

『世界で唯一「カエンタケ」というきのこだけは、さわるだけで皮膚がかぶれることが知られていますが、今回のきのこ展ではさわれないような展示になっています』
(植物園のフライヤーより)

とのこと。

「派手な色のきのこは毒キノコ」と聞いたことがあるのですが、眺めてみると、そんなわけでもなさそう。

有毒なきのこ

山登りのときに見かけるかもしれないので、有毒マークがついているものの写真を撮りました。間違って食べてしまうことはなさそうなのですが・・・。

オニテングタケ

kinoko-7

ドクツルタケ

kinoko-11

左の白いトレーに入っているのがテングタケ

kinoko-4

ウスキテングタケ

kinoko-15

オニタケ

kinoko-17

イボテングタケ

kinoko-16

 

食べられるきのこ

おなじみタマゴタケ

kinoko-6

スッポンタケ

kinoko-5

 

マツタケ、シイタケがあるのだから、他の樹に生えたものは樹の名前が付いているのかなぁ?となーんとなく思っていたのですが、モミタケってあるのか~。

kinoko-10

後からWEBを観たところ、「スギタケ(有毒)」もあるそう。他にもあるのかなぁ。

ポルチーニ (つくば産)

おいしそう。

kinoko-13

白トリュフ 

昔、鳥取に住んでいたころ、教頭先生が、
「砂丘の防砂林(松林)に松露をよく探しに行くんだよ~!」
と、理科の授業のときに自慢していたのを思い出しました。もう30年以上も前の話で、最近はめったに砂丘でもみかけないようです。
「松露(しょうろ)」とはよく付けた名前だと思います。

kinoko-20

 

 

 

 

 

黒トリュフ

kinoko-19

その他おなじみの食べても大丈夫な方々

私は、この辺の物で充分満足。

kinoko-14

珍しいきのこ(食べられるかは不明)

ラベルの「珍菌」の文字と、エクスクラメーションマークが熱い感じです。

センボンキツネノサカズキ

kinoko-9

 

コウボウフデ(いい名前だな)

kinoko-8

帰宅後、昔、人事異動の時に、職場にいたアシスタントさんに「好きそうなので選びました」と、送別の品としてプレゼントされた本を引っ張り出しました。
(私が登山をしているせいなのか?は不明)

ちくま文庫『きのこの絵本』渡辺隆次著

kinoko 18

『日本にはキノコの種は4~5000種あって、うち食用にされるのは300種類くらい。代表的な毒キノコは約30種類。軽度の毒のものも含めるとその倍くらいなのではないか・・』とのこと。

30年前の本なので、今はもっと有毒なものが増えているかもしれません。

『縄文時代の人糞の化石の内容物からきのこは発見されていない。食べた仲間が発狂したり、死に至るようすを見たりすると、誰も食べないだろう』と著者。

『ヨーロッパでは石器時代に、サルノコシカケ科やホコリタケ科のきのこを乾燥させて火口(ほくち)や血止め薬として使っていた』ことがわかっているそう。

そういえば、イタリアとオーストラリアの国境で見つかった「エッツィ(アイスマン)」もお腹の虫を退治するようなきのこを持っていたと、何かで読んだかも・・・。これは石器時代よりかなり後の話だけれど。あれはサルノコシカケ科だったのかな?

奥が深く、いろいろ調べ始めるときりが無いので、今はこの辺でとどめておこうと思います。

Share

感じることにOKを出してみる(香りを感じる編)

「感じることにOKを出してみる」

私が大事にしていることの1つです。

体のことを勉強し始めた人は飽きるほど聞いている言葉なのですが、体オタクでない人にはまだまだ浸透していないらしく、新しくお会いする人に私のしていることの説明をするときに、繰り返しお話しています。

何度となく同じようなことを周囲の人に話したり、ブログに書いたりしているのですが、また書きます。

「感じることにOKを出す」≒「頭で考えるのをやめてみる」

・・・ということです。

とはいえ、(例えば)

◆「好き好き大好き」だけで突き進む恋愛をする

→これは「エモーション(感情)」

◆セックスすることで「気持ちがいい」と感じる

→求めている感覚に近い感覚なのだけれど、私が求めている「感じること」と比較して衝撃がちょっと大きいかも(笑)

両方とも、今お話ししている「感じること」とは違う感じです。

ポイントは:

「無理をせず(空気を読むことはせず)そこにすんなり溶け込めるか」

「やってきた人・モノには無理をさせず、かつ自分も無理せず受け入れられるか」

できるだけこの条件の下で、いろいろなことを選択してみる。

これをしていると、「選択」というよりは自然に「流れ」のようなものに乗っていく感じになります。

精油を使うと「感じる」ことを体感しやすくなります。

手持ちの精油でまずは「感じることにOKを出す」練習をしてみましょうか

1.なんでもいいので何か精油を取り出して・・・

2.くんくん嗅いでみる

3.「体にすんなり香りが入っていく感じがする」「今日の自分に合う感じがする」

4.3のような感じがしたら、今日はその精油で芳香浴してみる。「なんとなくちがうな~」というときは、他の精油でまた1からやり直し

繰り返しているうちに、

「いい感じ、これだ!」

「ちょっと違う感じ or これ、どうでもいいことかもしれない」

の違いがはっきりわかるようになってきます。

精油の勉強をたくさんした人ほど、これが結構難しいです

「プチうつのときは○○」

「眠気を覚ましたいから○○」

「これは酢酸リナリルがたくさん入っているから・・・」

「更年期のときは○○」

など、どこかで読んだようなことを理由にして精油を選んでしまいがち。

それを敢えてしないで、感じるままに任せてみます。

「いい感じ」のものを使って、「あ~なんか、この精油、すごくいい!」

と思ったときに、初めてその精油の構成成分を見ると、

「うわぁ~!だからかぁ!(興奮で言葉にならない)」

という気づきと共に、「自分の感覚を信頼していいんだ」という自信が持てます。

最近は体調や心理的なものを考慮した上で精油を選ぶメソッドもたくさんありますが、メソッドがなくても、自分できちんと、自分のそのときの体調に合った精油は選べます。

普段の生活の中では

「ちょっと違う感じがする」→「でもまぁいいか」

で、済ませてしまうことがとても多いのですが、

疲れてバーンアウトしてしまうときはたいてい、

「でもまぁいいか」

の積み重ね。

「感じることにOKを出す」のは「まぁいいか」をちょっとやめてみることかなぁ。

もちろん、世の中「まぁどっちでもいいか(大した問題ではない)」と思えることもたくさんあります。

要は、

「まぁいいか」

ということと

「これはいい感じ」

「絶対譲れない」

ということとのメリハリをつけること

かなぁと思います。

 

Share

静寂にいることの大切さ

(7/27のツィートの転記です)

静寂にいることの大切さをわかっていただくにはどうしたら良いのか。→結局、必要な人にしかわからないということなのかしら。

 

「静寂」はあらゆることをリセットしていきます。1番効果があるのは、「条件付け」を外すこと。自分が自分に対して、周囲が自分に対してしている条件付けをリセットします。

 

過去、自分が自分に対してしてしまった条件付けで、自分で勝手に自分に制限をかけてしまっている人も多い。その制限が本当に必要なものなのか?「べつに必要ないよね」「んじゃ、もうそれ、持っていなくてもいいじゃない」「置いていこうよ」というとっかかりになる。

 

世の中、いろんなセラピーがあって、話をすることで条件付けを外すセラピーもある。けれど、セラピストとの「対話」で、また別の条件が設定されることもある。「静寂」はその心配がないの。

まっさらになった場所に、新たな条件付けをしないトレーニング、セラピストが自分の痕跡を残さないトレーニングを私たちはしています。心に対しても、体に対しても。前にブログにも書いたけれど「愛」「奉仕」「謙虚」このトレーニングはそういう意味がある。

 

なので、「なんだかわからないけれど、いつの間にか良くなっていた」「これって、セラピストのおかげじゃなくて、実は自分で良くしたのかも」とか、思われるくらいの方が、私たちに対しては褒め言葉だったりする。

 

なので、「存在感がないセラピスト」になりたいのだけれど、「存在感」は出しておかないと、お客様も来ていただけないという矛盾を抱えている私。

「静寂」は周りからいろいろ言われて疲れた人、誰かとの真剣な対話、ネガティヴな対話が続いて疲れた人にいいです。「黙っていていいです」「それ以上もう、この時間はおしゃべりしなくても大丈夫」

 

 

周りの人が感じていることに対して敏感、「エンパス」が多いと言われている日本では、「静寂」を大切にするセッションの方が向いていると思う。「静寂」は自分との対話。

Share

『療育』初めて聞く言葉・・不勉強なり

『療育』

発達障害があるお子さんの自立を目的とする治療と教育のこと・・なのだそうです。

昨日は阿佐ヶ谷で、錦戸かおりさん主催『がんばれ工房』さんの、アイデアを出す練習の会に参加させていただきました。

今回は、
「発達障害の方向けの教材ゲームの魅力を広めるのにはどうしたらよいか?」がテーマでした。

アイデアを出すためのヒントに・・と少し遊ばせていただいたのは「ヒットマンガ」というカードゲーム。
(web通販もしていました。ご興味ある方はwebでチェックしてみてください)

発達障害の人の「言外の意味を類推する力」のトレーニングが目的のようなのだけど、障害があろうがなかろうが、

●「普段自分の話している言葉がいかに他人に上手く伝わっていないか」、
●「いかに他人が発する言葉を自分が勝手に解釈しているか」
●普段の生活の中で、「相手が適度に推測してくれることで会話が成り立っている(不成立の場合も多い)」

こともよくわかります。

「これくらいわかってよ~!」と省略してしまいがちな、最後の一言二言をやはりきちんと言葉にしなくてはいけない・・という感じですし。

その「一言二言」を「頭で考えすぎ」とか「理屈っぽい」等と、批判する人もいるのだけれど、そういう人に限って、「他人の言葉を勝手に解釈している」ことも多いんですよ・・・。

最近私はバイオダイナミクスの勉強に一辺倒。

能動的な知覚を弱めて、受動的な知覚を高めるトレーニングばかりしています。

知らない人ばかりがいるアウェイ戦で、初めて見るモノについて言葉をたくさん使って何かを表現する、バリバリアウトプットをするということを、最近ほとんどしていなかったことに気がつきました。

そんなわけで、入れていた予定をすっ飛ばしたり、帰りの電車も「西船橋行き(なぜ?!)」に乗って地下に潜ってしまい、飯田橋の駅でJRに乗り換えたり。

「ぼーっ」とモードでご迷惑をおかけすることもあります。

会社員としてはダメダメモードですが、こういうときは確実にいい施術ができます!

Share

口伝とか技術継承とか

6月21日~24日に、3泊4日のトレーニングがありました。

去年から参加させていただいているこのトレーニングですが、「トレーニング」というよりも、「口伝による技術継承」という色彩がとても強いです。

もちろんその分野で、「伝承者が少なく必要に迫られた技術継承」というよりは、その技術を「学びたい!」と集まったたくさんの生徒たちに、先生が学ぶ機会を与えてくれている感じのものなので、この技術が無くなるということは、決してないと思いますが・・・。

テキストも用意してくださっているけれど、大切なことは全て、先生からの言葉やその場で体験したこと、感じたことで伝わってきます。テキストは先生の言葉や体験の補完であって、それを読んで全てがわかるわけではありません。

もちろん、トレーニングに出席しているからといって、それがきちんと理解できているかも、(実のところ)わかりません。

解った!とはとても思えないし、そう思うとそこで成長が止まってしまいます。

この技術のとても難しいポイントは、

「謙虚」「静けさ」「愛」などの、一見形而上的な事柄が「技術要件」に含まれるということ。しかも「必須」。

言葉だけ聞くと、「え~まじ~」「なんか怪しい~」と思われる方もたくさんいらっしゃるかもしれないですが、怪しいことはなにもなく、人間の体の自己調整能力を高めるための一助となる施術です。

「謙虚」「(奥深い)静けさ」「愛」1つでも欠けると、別の技術になってしまい、体験していることが、師匠が言っていることから外れてきて、師匠の言葉の解釈を間違ってしまいます。

そして一番の問題点は、上述した言葉「謙虚」「静けさ」「愛」はとても耳に心地が良いこと。

センシティブな人、感情が優る人につけこむのに持ってこいの言葉。

とても怖い言葉でもあります。

「テキストや書かれている用語だけが、断片的に独り歩きしていくことを、大師匠も師匠もとても危惧されているご様子なのは、それじゃないかしら・・」

と、推測します。

トレーニングの終了まで9年かかります。

nejibana-1

この9年間には、「謙虚」「静けさ」「愛」が施術をしている時間だけの付け焼刃ではなく、自分の中に定着させて、一生を通して貫徹するものとするための時間や、その言葉に責任を持って行動することの「お試し」の時間の意味も込められているのではないかしら・・とさらに推測。

同じようなところをぐるぐる回って、でも、少しずつ上に上がってくる感じ。

なんだか「ネジバナ」みたいです。

弘法大師が伝教大師に理趣経を貸さなかったというお話も、これと照らすとなんとなく理解できるような気がします。文字を読むだけではわからないことがたくさんあるのよね。

「口伝」だとか「技術の継承」だとかの世界には、私はこれまで全くかかわったことがなく、初めての体験。なので余計に新鮮に感じます。

Share