『奇跡』をベースにアイデンティティを確立しないこと・・・真釈般若心経を読み直して

昨年11月~12月にかけて、宮坂宥洪さんの『真釈般若心経』とちくま学芸文庫の『空海コレクション般若心経秘鍵』を読み直していました。

『真釈般若心経』は、鳩摩羅什や玄奘の漢訳だけでなく、サンスクリット原典も読んでから訳出する必要がある・・・ということを論じていて、漢訳から日本語訳へ訳出するときの危なっかしさにも触れられています。

今回読み直していて気になったところは、サーナルート(鹿野苑・・)に残っている仏伝レリーフと般若心経の解釈とを併せて論じられている部分についてです。

9月から通っている阿字観教室やその後に行った奇跡講座の学習会やボディワークのワークショップで体験したこと、普段自分が勉強している手技療法のことと一緒になって、頭のなかでモソモソと動き始めたので、ツィッターで呟きました。

その書き直しです。

サーナルートの考古博物館に保管されている四層の仏伝レリーフの話

 

そのレリーフには四階建ての建物が刻まれています。

1階は幼児レベル(出発点)。
2階は「世間における自己形成のレベル」。
3階は無我のレベル。→ワンネス・・ともいえるかな?
4階は観自在菩薩(スピリット)のレベル。
屋上はブッダの居るところ。

2階にいる時になにか勘違いが起こると、それより上の階にするっと登っていけないのだなぁと思うことが昨年はいろいろとありました。

「プレゼンス」に居られるようになると・・・・

2階の「世間」レベルにいる時に、「プレゼンス」に居ることができるようになると、自分も変わりますが周囲も変わってきます。最初の頃は自分に都合の良いことがたびたび起こることもあり、それを「自分がやっている」と勘違いされる方も多いです。

「奇跡だ!」と思う方もいらっしゃいます。

どんな変化が起こるか?言葉でその状態について上手く説明できないのですが、実践されている方はそれにすぐ気がつかれるはずです。とても漠然とした表現ですが「何かやわらかいものの広がり」といったところでしょうか。とにかくいろいろなことがおこります。

その状態を「自分(私)が中心になって起こしている」と勘違いされている人も多いのですが、そこが2階に居続けるか、3階に上がっていくかの分かれ道のような感じがしています。

「自分が起こしているのではない」
「周りの人が勝手に変わっているだけで、自分は何もしていない」

「そう心から思えるか」
「その思いを施術中だけでなくて普段の生活でも保てるかどうか」

詳細は書けませんがそれがボディワークの施術の質を左右するのだなぁと思うことも昨年はたくさんありました。

ちなみにプレゼンスに居るために高額なワークショップに行って誰かから習う必要は全くありません。誰でも慣れればできますし、独学でできるようになります。

「あ、プレゼンスってこの(状態の)ことを言ってるの!」

という感じです。

正直なところ、私は「そんなことで人からお金いただかないほうがいいんじゃないかな」と思っています。
お金は「何か生産すること」「目に見える形になって表れてくるもの」「確実に『変わった』と自分も周りの人も言い切れるもの」でいただく方がいいのではないかと思います。

そのことを書き始めるとまた長くなるので・・・また今度書きます

奇跡・・・錯覚&勘違い

「自分(私)が奇跡を起こしている」「自分(私)がここに居るから奇跡が起こる」という錯覚を持つと「無我」になることができず、そこから上の階に行くチャンスを失います。

そしてとても残念なのですが、それを「錯覚」と認識できる、本当の意味で理解できるのは上の階に登った人だけです。

「自分(私)が奇跡を起こしている」ことを「事実」と捉えている人は「錯覚」のところから自己形成をしていきます。

「私が居るおかげであなたの(体、心、その他)状態が良くなったのよ」
「私のことを優れた人間だと認めてほしい」
「だからお金もたくさん払ってほしい」

大元の「奇跡=錯覚」の部分が無くなると自分が無くなります。ですのでその偶然の産物のような「奇跡」にとても執着しますし、その執着のせいで自分の人生を苦しくしている人がたくさんいるように思います。

そこから抜け出すために、周囲の人は何も手助けができなくて、後は自分が気がつくか気がつかないか。他の人に何を言われても二階からは動けません。

へんな執着から抜け出したのが3階が無我のレベル。4階は観自在菩薩(観音菩薩)、spirit(スピリット)ののレベル。4階は見晴らしがいいよ!!

(というレリーフです)

もちろん、ずっと二階にいるという選択肢もあります。

『真釈、、』の結論

  • 般若心経は決して世間レベルの処世術の話ではなくて、観自在菩薩が舎利子(シャーリプトラ)にマントラを伝授したシーンをお経にしたもの。顕教的にも密教的にも読める。
  • 玄奘や空海が「般若心経を観自在菩薩から伝授された」という伝えがあるそうなのですが、他人が「空想だ」というものでもなく、2人の御人が信仰生活を送る中で、ものすごく内側の世界で起こった事実だと考えると納得できる。でもそれは本を読んでも人の話を聴いても、最後は「自分で坐らないとわからないよ」

そして伝授されたマントラの内容が面白い。マントラなので訳出はとても難しいそうなのですが・・・

『ガテー ガテー パーラガテー パーラサンガテー ボーディ スヴァーハー』
『到れり 到れり 彼岸に到れり 彼岸に到着せり 悟りに。めでたし』

空海さんによると、最初の「到れり」は「声聞の修行の成果」、二番目の「到れり」は「縁覚の修行の成果」、三番目の「パーラガテー」は大乗の修行の成果、四番目の「パーラサンガテー」は真言マンダラの教えの修行の成果、「ボーディ スヴァーハー」は究極的な悟りに入る・・ということだそうですが・・。

「行ったぞ、行ったぞ、彼岸に行ったぞ、彼岸に到着したぞ!悟ったぞ~いぇーい!」という掛け声のような感じがしてきました・・・。

みんなでこんな言葉を日々唱えているという状態はとても面白いです・・・。

 悟りと勘違いしないこと

2階にいるときに起こった勘違い「偽りの知覚」を取り消す奇跡が起こることを手伝ってくれる聖霊はみんなに必ずついています。

気がつくか気がつかないかだけだし、気がついた人が「特別」なわけでは決してありません。

それは「悟り」ではなくて、まだまだごく1部分のことだと思います。

ワンネス体験など、変性意識の中でいろいろな体験をした人はたくさんいらっしゃって、それを「悟り」だと勘違いしている人もたくさんいらっしゃいますが、それも違います。
たぶんそういう体験をすると一瞬は3階に入ることができるのですが、慧が抜けているとすぐ2階に戻ってしまう。逆に慧を頭で知っていても、やはり3階に長く居ることはできないです。
両方を持って2階から3階に上がれば、4階まではすぐ行けるのかなと思います。すぐ行ける。。。というか「もう一息」って感じなのかもしれません。

シャーリプトラは元々無我レベルで、もう3階にいたからあの説明でもわかったのだろうなと思いますが、2階にいる人にはあの説明ではお釈迦さまの説明ではほとんどの人はわからないのではないかと・・・。

説明してくれてるお釈迦さまには悪いのですが、2階から3階に上がるときに(自分の)自我について徹底的に見る必要がありそうです。

(他人の自我を見てもケンカになるだけです。笑)

 観自在になること

自分のエゴを見ていれば、他人のエゴもわかってくる。それがわかっている人は敢えて他人のそれについて触れずココロに留めておきます。それは自分のエゴであり、自分のエゴについて触れて回るだけになるから。

気がつけば気がつくほど静かになります。自己主張する必要性を感じなくなるので、主張することも少なくなります。「人よりも目立とう」とか「きれいに見せよう」とか・・そういうことも無くなってきます。

自分の立場に立ってみる。相手の立場にも立ってみる。じゃぁ、自分が3階にいるシャーリプトラだったらどう観るか?4階にいる観音さまだったらどう観るか?

立場をいろいろ変えて観ていく。それが「観自在(自在に観る)」のはじまりです。

因果応報の連なりもわかってきます。その細かい連なりの説明をお釈迦様(お大師さまも)は端折ってしまったのだろうと思います。

理由・・・ACIMみたいにあんな分厚い本にしなくてはいけないほど、言葉を書き連ねないといけなかったから。
(実際、宗教のほとんどのことは口伝で、後から文字に書き起こされたものばかりですものね)

4階の生活と2階の生活

そして4階から見たら・・・なのですが。

4階のロジックと2階のロジックはかなり違います。
本当に残念なのですが、4階のロジックで2階では生活できません。

4階から2階に戻るときはどれくらい自分の「エゴ」を自覚して行動、発言できるかなんだろうなと。

2階のロジックで生活するとき、「エゴ」無しでは生活できません。

自分の「エゴ」を自覚して、出力を調整しながら周囲の人と生活するうちに、少しずつ周りの人も気がついて、2階→3階→4階と少しずつ上がってくる。その連なり。波紋なのかなと思います。

1人1人、みんなが中心。その広がり、連なりです。

それが結果として「救済(この言葉好きじゃないけどわかりやすいから使っておこう)」につながる。病気が治ったり宝くじに当たる・・というような「奇跡」が起こることが「救済」ではないです。決して。

4階まで登った人は、昔であればお寺かどこかで静かに暮らす選択肢を取ることが今より簡単にできたのではないかと思いますが、今は難しそうです。

(お金が無いと、お寺でもどこでもこの貨幣経済を渡っていけないから)

観自在菩薩(観音様)もお大師さまも聖霊なのだろうなと思います。
観音様は精霊としては大ベテラン。お大師さまはなりたてホヤホヤのスピリットって感じなんだろうなと思います(これはイエスさまにも言えるだろうなと・・)。
「神」は創造主でただ作っただけの存在、精霊はお願いごとを聴いてくれるそう。

なりたてほやほやの精霊にお願いするほうが、願い事は叶うかも?!

と考えながら2016年を迎えました。

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投稿者:

backyard

メディカルハーブ、アロマセラピー、ボディワークをベースに、体を健やかに保つ方法を考えています。

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