2019年1月の記録:研修に参加

ブログやFBの更新を積極的にするのをやめてからしばらく経ちました。

「やめる!」と決めたわけではなく、なんとなくなのですが。

「外に向けて何かを伝えたい」と特に思わなくなってしまい、休憩をしていました。

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1月は恒例行事のようになってしまいましたが、研修に2回参加しました。

内容について書くのは避けますが、まるっとまとめてしまうと、自分が

「ジェダイマスターからフォースの扱い方について学ぶパダワン」

になった気分でした。T師匠はオビ・ワンで、私はアナキンか(いや、そんなに優れてないぞ)。ジェダイ騎士の先生方、たくさんいらっしゃったなー。

こういう書き方をすると、エキセントリックな印象を持たれてしまうかもしれないのですが、でもまぁ、ほんとにそうでした。

ユザ○ヤで生地を買って、ジェダイマントを作っちゃおうかなぁと、帰りの電車で真剣に考えました。

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バイオダイナミクスのクラスの受講を許可されるまで、ずっと疑問に思っていたことの1つが、

「(あるやり方で)施術することで、受け手までセンシティブにしてしまうのではないか」「センシティブなのは術者だけでいいじゃない。受け手までセンシティブにする必要ってあるの?」

ということでした。

これまでの研修でこの疑問に関する回答はうっすら出ていたのですが、今回の研修では、全く別の観点から答えがやってきて、疑問自体が無くなりました
(タイド的な解決法だなぁと思います)。

T師匠、アシスタントの先生方、クラスメートのみなさんに感謝です。

人間が思考して構築、発展、発達させたシステムでないシステム(例:人間の体)で起こる現象や、そのシステム間のコミュニケーションでは、
「インプット、アウトプットするときに使う『言葉』もノイズになる」
ということも改めて感じました。

施術の最中、そのときに透明になった体で感じたことが全て。

もちろん、言葉や言語はある段階で必要なことを学ぶためには重要で、私は今もこれを使わないと体について学べませんが、それだけでは伝達できないことがたくさんあります。

こういったことを饒舌に語ること自体、それを否定している感じもします。矛盾している行為なのかも。だから最近、ブログもフェイスブックも更新したくなくなったのかなぁ・・とこのブログを書きながら感じています。

そして、それは、施術を受けてくださる方にはさほど重要でないこと。
あくまでも術者側の問題です。

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「水平線から上がってくる太陽、光」その場にはすべてが詰まっています。今回は朝日の写真ばかり撮っていたのですが、それもなんだか、言語の情報を超えたところのものを伝えたい、という師匠の心意気の影響をすっかり受けてしまった結果のような気がしています。

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6/16-19 バイオダイナミクスオステオパシー phase 3 受講

怒涛の6月第2弾。

今年で3年目。バイオダイナミクスオステオパシー(以下「バイオ」と略)の講座に行ってきました。

「恒例」とは書いてみましたが、実は毎年毎年、

「来年は行けるかなぁ?」
「行けるようにするんだよ!」
「行って大丈夫なの?」
「いや、大丈夫にするために行くんだよ」

と、自問自答をぎりぎりまで繰り返して、そしてやっぱり参加する講座でもあります。

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「バイオ」について私が語るのはまだ早いなぁと思うので、受講内容などの詳細は省きます。

正直、ブログなんぞで「まるっ」とまとめて語りたくない深く広いこと。
施術毎にこれからもまた何か新しいことを体験するはずなので、今ここで「バイオ」の世界観について言語化、定義をして、私が持っている小さな枠組みの中で確定したくない感じがしています。

ここ3年間、私が所属しているクラス(他のクラスとは少し変わったクラスらしい)のパターンですが・・・。

例年、初日の最初のセッションは、前年の講座で学んだことがきちんと定着しているかどうかのチェックと、1年間、怒涛のシャバ生活を送っていた私たち自身のメンテナンス&垢落とし。

そしてその後のセッションから最終日まで、そのフェーズで課題となっていることを順番にしていって、それが次の1年間にこなすべき宿題になる・・という感じがしています。

もちろん、この宿題の他に、私の場合は自分の関心が向くことが必ず出てくるので、それも1年の間に調べながら進みます。

この「宿題」や「関心」については、親しいクラスメート以外に誰に話すわけでもないのですが、面白いことに、それがテーマの施術を行う機会が増え、日常生活でもそれがキーワードになる出来事が増えます。

結果的に、生活丸ごと「バイオ」になってきつつあります。

きっと、長く続けられている先輩方はみなさんそうだと思うのですが・・・・。

次のフェーズを受講するまで1年間開くのですが、それも、学んだことを自分の体まで落とし込むのにちょうどよいのかな・・と思います。

幸いなことに、今のところ毎年、先生から「これやってみて!」と提示されることは、最低限はクリアできているようなので、状況が許す限り参加し続ける予定です。

最初の年は「どうしよう」「1回やってみてだめだったら諦めよう」と思いつつの参加でしたが、意外にも先生のお話を、頭ではなく、身体で
「!!」
と腑に落ちるところまで体感できている感じもしています。
たぶんこの施術は、今のところ私には合っているのだろうなと思っています。

そんなこんなで、私の夏というか1年は、6月で終わりました。また来年の6月まで粛々と施術と勉強と仕事の毎日です。

毎年、講座が終わった後に、奮発してケーキをいただいて帰ります。
今年もおいしかったです。

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6/6-6/9 植物療法の講座を受講しました

怒涛の6月第一弾。

6月6日から9日まで『オステオパシーのための植物療法』という講座を受講しました。

細かい講座の内容は(敢えて)省きますが、4日間、講師でオステオパスである
Bobby Lafertty D.O.が、ネイティブアメリカンのご先祖様から受け継いだ智慧と、ボビー先生の経験、体験、研究から新たに加えたものとをとりまぜつつ、びっしり、とても丁寧に教えてくださいました。

座学もありますが、身体で自分が感じることを大切にする時間もあり、1つ1つ体に落とし込んで、さらに夜寝る前1人で感じなおしておりました。

(この辺りはバイオの講座と同じなのかも・・・)

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いろいろ混ぜて書いてはいけないと思いつつ、また書いてしまいますが・・・。

以前からの私感なのですが、「薬草」としてハーブを使うことで起こる変化と、バイオダイナミクスオステオパシーの施術で起こる変化は似ているところがあり、バイオの枠組みで「薬草」について考えると、(私にとってですが・・笑)とても面白いのです。

それぞれの植物は体に対して、それぞれ違う働きかけをしてくれます。植物はそのときそのとき「こうしてみる?」と「提案」をしてくれます。それを「偶然!」で片付けたくもないので、同じものを必要があるときに、何度も繰り返し試します。お茶で試したり、チンキ剤で試したり、ハーブウォーターを作ったり、香りをかいだり。結果、「ああ、このときはこれってことね・・・」と思えるまで、1年以上かかることもあります。

例えば、講座でも紹介された「フィーバーフュー」は、私の場合、お茶で飲んで、一般的に言われている変化が何もなかったので使うのをやめていました。今回の講座では、先生が「フィーバーフュー」をテーマに研究をされていたこともあり、使用方法についても細かくおうかがいして、もう1回チャレンジしてみることにしました。使い始めて3週間くらいですが、今のところ安定している感じです。

バイオの言葉を使わせていただくと、「リージョンにアプローチするのではなく、ヘルスと共にいて、ポーテンシーが施術している」感じ。まさにバイオ的な変化が起こります。

あ、順番が違うな・・。
「バイオ的」というか、それが「nature 」「自然」な動きなんだだろうな。以前からある「自然」という枠組みの中で、生存させていただくときに出てくる自然な動き・・という感じがします。

(お世話になっているIOIJのサイトに以下の文が掲げてあります)

Osteopathy existed before Dr. Still came to it, by suffused contemplation. You must reach into this source and move freely from it. There are no other authorities in this profession…none! There are no other teachers than the eternal nature of the cause of Osteopathy.

オステオパシーは、Dr. スティルがそこに来る以前から、満たされた状態の意図として、存在していました。あなたはこの源へたどり着く必要があり、そしてそこから自由に動ける必要があるのです。この職業にこれ以外の権威は存在しません・・・他に無いのです。オステオパシーの根拠である、その永遠なる自然(nature)以外に、他の教師は誰もいないのです。

そんなこんなでメディカルハーブの勉強を始めて、もう10年くらい経ってしまいました。まだまだ知らないことばかりで、たぶん死ぬまで勉強していそうです。これもバイオと一緒だなぁ。

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「エゴ」はなくても個性は残るのかな/「変形菌」展を見て

現在勉強中の、そして亡くなる瞬間、亡くなった後も勉強し続けることになりそうな「トラディショナルオステオパシー」における、ヒトの身体の見方の参考になるということで、「粘菌」についてちらほら気にかけています。

本は何冊か読んだのですが、わからないことがたくさんあり、少々困っておりました。

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そんなわけで、2月17日から開催されている「変形菌」展を初日に見てきました。以前に読んだ本の著者の方々が登壇される、プレミアムトークが聴きたかったのです。
3人の先生方のそれぞれのお話は私にもわかりやすく、また展示は、実物、模型、画像が盛りだくさんで、これまで「?」だったことも、だいぶわかるようになってきました。増井真那さんの、『変形菌の「自他」の研究』は本当に興味深いです。

上映されていた「アメーバ状細胞→接合→細胞分裂をやめる→核が増える→細胞が大きくなる→原形質流動が始まる」という動画は、感動して3回繰り返して見てしまいました・・・。

▼スマホ用のレンズが置いてあって、こういう画像を撮ることもできます。

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▼南方熊楠さんの絵の具は文房堂製だった!
学生時代から神田神保町界隈に入り浸っていた私としては、とても親近感が湧きます。「熊楠さんも、あの本屋、この本屋、あちこち立ち寄ったのかしらー」と妄想。

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展示物の写真撮影がOKだったのもとても良かったです。遠慮せずもっと撮って来ればよかったな~。

粘菌の生態はもっと知りたいこと満載、自分で育ててみたい感じでいっぱいなのですが、変形菌のことを調べ始めると、トラディショナルオステオパシーの勉強ができなくなりそうなので、適度にとどめておこうと思います。

ごちゃまぜにしてはいけないと思うのですが、ついついやっぱり混ぜて書いてしまいますが・・・。

トラディショナルオステオパシーの独特の施術をするときは、自分の「エゴ」を失くすようにという指導を受けています。

それは、普段、頭でいろいろ考えることで自分を守っている「人間」からすると、「『単細胞生物』に戻れ!」と言われているようにも思えます。

不思議なことに、施術する側が「エゴ」がない状態になると、施術を受ける方もそれを感じられるのか、お互いに「エゴ」がない状態になります。

最近その状態の中でよく感じるのが、

「エゴは失くなっても、その人の個性(特性)は残る」

よく「エゴがなくなる→→→みんな1つ(ワンネス)になる」とは言いますが、みんなそれぞれが「Whole」の構成要素の1つとして、その個性を持っている感じ。

それぞれが突出した何かを持ってはいるけれど、「自己主張」はしない感じ。

決して無個性になるわけではないのです。

各々がその「個性」に沿って生きると、精神的、魂的(単細胞的?)にはとても元気に生きられます。元気を失くしていた人は活力が戻ってきます。

帰り道、夕暮れの中、車を走らせていたのですが、自分がまるで、ボヤーとした原形質の中を動く小さな核の1つになったような気分になりました。

ゾーンがとても大きくなった感じがしました。

科博の南方熊楠展、どうしようかな~。

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口伝とか技術継承とか

6月21日~24日に、3泊4日のトレーニングがありました。

去年から参加させていただいているこのトレーニングですが、「トレーニング」というよりも、「口伝による技術継承」という色彩がとても強いです。

もちろんその分野で、「伝承者が少なく必要に迫られた技術継承」というよりは、その技術を「学びたい!」と集まったたくさんの生徒たちに、先生が学ぶ機会を与えてくれている感じのものなので、この技術が無くなるということは、決してないと思いますが・・・。

テキストも用意してくださっているけれど、大切なことは全て、先生からの言葉やその場で体験したこと、感じたことで伝わってきます。テキストは先生の言葉や体験の補完であって、それを読んで全てがわかるわけではありません。

もちろん、トレーニングに出席しているからといって、それがきちんと理解できているかも、(実のところ)わかりません。

解った!とはとても思えないし、そう思うとそこで成長が止まってしまいます。

この技術のとても難しいポイントは、

「謙虚」「静けさ」「愛」などの、一見形而上的な事柄が「技術要件」に含まれるということ。しかも「必須」。

言葉だけ聞くと、「え~まじ~」「なんか怪しい~」と思われる方もたくさんいらっしゃるかもしれないですが、怪しいことはなにもなく、人間の体の自己調整能力を高めるための一助となる施術です。

「謙虚」「(奥深い)静けさ」「愛」1つでも欠けると、別の技術になってしまい、体験していることが、師匠が言っていることから外れてきて、師匠の言葉の解釈を間違ってしまいます。

そして一番の問題点は、上述した言葉「謙虚」「静けさ」「愛」はとても耳に心地が良いこと。

センシティブな人、感情が優る人につけこむのに持ってこいの言葉。

とても怖い言葉でもあります。

「テキストや書かれている用語だけが、断片的に独り歩きしていくことを、大師匠も師匠もとても危惧されているご様子なのは、それじゃないかしら・・」

と、推測します。

トレーニングの終了まで9年かかります。

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この9年間には、「謙虚」「静けさ」「愛」が施術をしている時間だけの付け焼刃ではなく、自分の中に定着させて、一生を通して貫徹するものとするための時間や、その言葉に責任を持って行動することの「お試し」の時間の意味も込められているのではないかしら・・とさらに推測。

同じようなところをぐるぐる回って、でも、少しずつ上に上がってくる感じ。

なんだか「ネジバナ」みたいです。

弘法大師が伝教大師に理趣経を貸さなかったというお話も、これと照らすとなんとなく理解できるような気がします。文字を読むだけではわからないことがたくさんあるのよね。

「口伝」だとか「技術の継承」だとかの世界には、私はこれまで全くかかわったことがなく、初めての体験。なので余計に新鮮に感じます。

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