昨日と一昨日来てくれた何か(記録)

毎晩私は、練習がてらなのですがベッドに入った後、セルフで自分の体に施術をします。

いつも大体、変化が起こったか起こらなかったかわかる前に、寝てしまうことが多いのですが。

一昨日と昨晩は、喉のイガイガした痛みも続いていて、

「いつ風邪という名前に変わるのかなぁ?」

という感じでしたので、まずは扁桃腺。それから、胃腸→子宮→第2チャクラと第4チャクラへ。

一昨日も昨晩も、何かに気が付く前にするっと眠ってしまったのですが、身体がものすごく熱くなり、でも心地よい状態になっているところで、目が覚めました。

私の体幹より少し太いくらいの幅で、ものすごく静かでゆっくりとした、ひょっとしたら止まっているのではないかなぁというくらいゆっくりな流れの様な何かが、私の体を通っていました。

まだ暗く、気が付いて時計を見たときは、3時くらい。

しばらくしたら、また、瞼が落ちてきて、次に気が付いたときは6時半過ぎ。

喉のイガイガは全く気にならなくなっていて、頭のごちゃごちゃが無くなっていました。

だいぶ外が明るくなってきていました。

何か名前がついている現象なのかもしれません。記録がてら書いておきます。名前がわかったら追記します。

2017.2.1追記
先輩先生より、「ヘルスがタイドとなって治療をしたのだと思います」と教えていただきました。お名前を出してよいかわからないので、今回は無記名で。

ありがとうございます!^^

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ここ1か月ほど、自分がどこに居てよいのかよくわからない、かなり漠然とした不安感を感じ続けていました。

勉強を続けていてよいのかもわからない。施術を続けていてよいのかもわからない。

「でもね、自分は勉強は続けたい。施術は続けたい」

という気持ちだけは強く、確かなのですが。

昨晩は特に、

「私は、この世界のどの層に居たらいいんでしょう」

と(誰かに)問いかけもしました。

これはたぶん、そのお返事なのかも。

そこに居ていいんですね。きっと。

自分が「したい」と思う気持ちも大事にしようと思います。

そもそも、「続けてよいのかわからない」というのが、誰に対しての「許可、承認」なのかもよくわからないのですよね。

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プレゼンス/言葉の暴力から自分を守る方法

ここ数日よく聞いていた話なのですが・・・。

毎日息つく暇もないほど忙しい職場では、自分のイライラを人に押しつける人が本当に多いです。

そのときの感情に任せて、余計な悪意のある一言を付け加えて話をする人がいます。

ターゲットになる人をきちんと選んで話していて、押しつけられるターゲットになる人はたいてい、性格が優しい人たち。

意識しているのか無意識なのかはわかりませんが、決して、上長だとか、自分より社歴が長い先輩格の人たちには言わないのですよね。

身体への暴力のようには目に見えにくい分、タチが悪いです。

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「性格が優しい人」

こんな人は「自分が悪いのかも」と考えてしまいがちな人。そしてまともに「イライラ」を受け止めた結果、疲れてしまいます。

でも悪いのはこの人では決してなくて、イライラしている張本人と、その環境で仕事をさせる組織なのだけれど。

最初に書いたようなシチュエーションになってしまいがちなとき、相手とどうしても話をしないといけないときは、その瞬間は「プレゼンス」にいることで、自分をちょっとだけ守ることができます。

「うわ、まずい感じがする」と思ったら、トイレでも階段でもどこでも良いのですが、2、30秒でも良いので、静かに「今(プレゼンス)」にいて、自分のペースを維持、守ります。相手の「イライラ」ペースに引きずられないようにしてください。

自分が静かで、相手に引きずられないようにしていられると、相手が自分から出てくる「イライラ」のなんともいえない違和感に自然に気がつき、上手くいけば、そのうち静かになってくれます。

「自分を守る」というよりは、相手の気づきを促す・・という感じかも。

相手のイライラをまともに受け取ったり、相手のイライラのせいで、こちらもイライラを返して、かえって自己嫌悪に陥ってしまわないですし、いい方法だと思います。

言い換えると、プレゼンスに居ることは、自分のその穏やかさを周りにシェアしていくことになります。

自分だけでなく、その穏やかな状態を周りに拡げることが大切かなぁと、最近よく思います。

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でも、一番最初に書いた、「イライラを押しつけられている状態」が長く続くようだったら、すぐその場は去りましょう。

職場だったら仕事を変えるとか人事に話して異動願いを出すとか。周囲に手伝ってくれる人を探して、相手とは直接話さず、手伝ってくれる人にお願いして話すようにしてもらうとか。パートナーだったら、一緒に住むのを止めましょう。

我慢する必要はないですし、そもそも、必要以上の「我慢」をする関係性を維持する必要はないです。

「イライラを押しつけられている」状態自体が異常。変な状態になっているのです。

でも、自分がその渦中にいると、そのとても変な状態の中にいることすらわからなくなってしまうのですが・・・。

そんなことを思っていた数日間でした。

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身体のリラクゼーション・意識のリラクゼーション

ここ1か月ほど、PCの作業やスマートフォンのせいか、目が上手く動かない感じ「lock-on」している状態で頭痛が続いていたこと、阿字観(真言宗の瞑想法です)に行って坐っていたら体調回復したことを先日書きました。

こちら⇒ 自分メンテの日(視野狭窄)

阿字観は「意識が拡散していく瞑想」という言葉を指導してくださるご住職からうかがいました。大事なことのような気がするので、今、頭の中にあることと併せて、まとめて書いておきます。

阿字観は「全てを無くしてしまう」瞑想ではなくて、「全てある」ことを認める瞑想。そこから意識を拡散していきます。

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  1. まず三礼や阿息観、数息観を行うことで、身体のリラクゼーションを狙います。
  2. そして、月輪観や阿字観へ進みます。これが意識のリラクゼーション。

視野が1点に集中している筋肉の状態のままずっと過ごしていたのが、阿字観で体のかなり奥にある筋肉も緩んできたのだろうな。

これが、私の「目が動かない」状態にも良かったのだろうな。

詳しいことは内緒なのですが、ここ1か月「意識のリラクゼーション」がなかなか深いところまで行けなかったのは確かです。阿字観の場、お寺や一緒に参加していた方々の瞑想力が助けてくれた感じがします。 これで私もまた、深いところまで戻れそうです。

もちろん、意識のリラクゼーションまで進むためには、その場が「愛がある場」「オープンマインド」で居られる場であることが大前提です。

 

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意識のリラクゼーション⇒意識の拡散⇒一点に集中しすぎている意識を少しずつ薄めていく

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私が施術でお客様のお体に起きてほしいなぁ・・・・と希望している状態もこれと似たような状態です。

まずは身体も意識もリラックスしている状態になっていただく。

リラックスした0の状態が自然免疫力を発動、力を高めていきます。

それが次に行動する活力にもなります。

でも、前述の通り施術を受けなくても、自分でもできるのです。
(セラピストがいる意味ないじゃない・・という感じもしますが)

以下は私がいつもする一番簡単な方法です。以前ブログに書いたことからの引用です。

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植物と一緒にいてみる

ただそこにいて、根から水や養分を吸い上げて、呼吸をし光合成をし生きている植物。
動物のようにパタパタ動くことがないのだけれど、だまってそこにいる割に結構存在感がある。

「ああ、この子も生きているんだな」

と、生命体として、ヴィジュアル的にもわかりやすい樹木や植物のそばにいて、ぼんやりと見つめたり触れたり、香りを嗅いだり感じてみること。

自分のまとまり感を取り戻すために、一番最初に私がよくする方法です。

一点に集中しすぎている意識を薄める

突然予想しないことが起こって混乱したり、ぎゅうっとネガティブな感情だけでいっぱいになっていたり、頭でいろいろ考えすぎていたり、たとえば・・・好きな人や嫌いな人のことで頭がいっぱいになって思いすぎているときなど、何か1点に集中しすぎているときにすることが多いです。
自分が今どんな状態になっているかまず把握して、植物のそばに行きます。1点に集中しすぎている意識を薄める感じです。

薄めるように、しばらくぼおっとします。

意識する対象を他の人間に移すと迷惑をかけそうですが、樹木や植物に移しても、彼らにはそんなに迷惑をかけていないだろうと思っています。
対象は、植物でなくてもいいのかもしれません。植物なのは私がやりやすいだけかも。
わんちゃん、ねこちゃんは、彼らは彼らで強い感情を持っているだろうから迷惑に思われそう。

そんな感じです! (どんな感じだ!)

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今日は飼っているセキセイインコと一緒にじっと坐っていました。

15分くらい目をつぶっていました。彼女(彼かもしれない。まだ性別不明・・)は肩に乗っています。

「飽きてきて途中で動くかな?」

と思っていたのですが、静かに肩にとまっていてくれました。

人間の意識が静かになっていることは、動物にもわかるのだろうな。

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「わたくしといふ現象」・・・・宮沢賢治と瞑想とかプレゼンスとか

『春と修羅』の序文のこと

私は薄暗い部屋で瞑想をするときやボディワークの施術を受ける時、「青紫の淡い光」を頭の中に見ることがあります。
(光の色は白いときもあり青白いときもあり・・・。こういう方は結構多いのではないかなと思います)

そのときは頭には光以外に何も浮かんではこないのですが、終わった後にはたいてい、宮沢賢治の『春と修羅』の序文が思い浮かびます。

宮沢賢治も「プレゼンス」に長い時間居ることができた人ではないかと思っています。

宮沢賢治→ (wikipediaに飛びます)

 

Miyazawa_Kenji

宮沢賢治は仏教に傾倒しその関係の修行も行い、神秘体験をしたこともあります。菜食主義であったこと、妹の死により心が混乱し心の病気を患っていた時期もあるとのこと。

宮沢賢治が書く文章について

「普通の人が目に見えないものも見えていたのではないか」
「書かれているものは、想像の産物ではなく、彼の目には見えていたものだ」

と考える人、研究をされている方々がたくさんいます。

私もここ20年ほどずっとそう思っていたのですが、自分で「そうだな」と確信できたのがここ数年くらいの間です。

今よりも理解が少ない時代に、「心象スケッチ」として精神世界のことについて書き残した彼の志や、言葉で表現できた文才を、改めて「すごいな・・・」と思います。

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 (写真は複製。学生時代に古書店で格安で手に入れたもの。装丁がとてもこっている。表紙は布でタンポポ柄です。賢治のこだわりを感じます)

『春と修羅』の「序」は、心象世界の奥深く、そして自分の世界が周りの人、世界と繋がっているということ、もっと大きな世界の中にいることが書かれています。

「あ~これはもうそのまま、スピリチュアルな世界だ」

という感じです。

仏教思想の影響を受けているのは明らかですし、瞑想中や1人で静かに過ごしているとき、野山で採集活動をしていたときなどに持ったフェルトセンスや、そのときそのときのことをプレゼンスの状態で見て、繊細に感じとったことのように思います。

自分は「わたくし」ではなくて、「わたくしという現象」と表現しています。「わたくしという現象」が地上に起こっているだけ。ただそれだけ。

「仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です」
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
「因果交流電燈のひとつの青い照明」

自分が青い光となる、そんな時間を賢治も持ったのだなぁと思います。

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「序」は読んでいるといつもなんだか涙が出てきます。悲しい涙ではなくて、ほっとする涙。何か大きなものの中に戻っていく心地よさです。

『春と修羅』は青空文庫にも収録されているので、長めに引用させていただいてもいいかな・・・と思いました。 差しさわりがありましたら削除します。

わたくしといふ現象は
仮定された有機交流電燈の
ひとつの青い照明です
(あらゆる透明な幽霊の複合体)
風景やみんなといつしよに
せはしくせはしく明滅しながら
いかにもたしかにともりつづける
因果交流電燈の
ひとつの青い照明です
(ひかりはたもち その電燈は失はれ)

これらは二十二箇月の
過去とかんずる方角から
紙と鉱質インクをつらね
(すべてわたくしと明滅し
みんなが同時に感ずるもの)
ここまでたもちつゞけられた
かげとひかりのひとくさりづつ
そのとほりの心象スケツチです

これらについて人や銀河や修羅や海胆は
宇宙塵をたべ または空気や塩水を呼吸しながら
それぞれ新鮮な本体論もかんがへませうが
それらも畢竟こゝろのひとつの風物です
たゞたしかに記録されたこれらのけしきは
記録されたそのとほりのこのけしきで
それが虚無ならば虚無自身がこのとほりで
ある程度まではみんなに共通いたします
(すべてがわたくしの中のみんなであるやうに
みんなのおのおののなかのすべてですから)

けれどもこれら新生代沖積世の
巨大に明るい時間の集積のなかで
正しくうつされた筈のこれらのことばが
わづかその一点にも均しい明暗のうちに
(あるいは修羅の十億年)
すでにはやくもその組立や質を変じ
しかもわたくしも印刷者も
それを変らないとして感ずることは
傾向としてはあり得ます
けだしわれわれがわれわれの感官や
風景や人物をかんずるやうに
そしてたゞ共通に感ずるだけであるやうに
記録や歴史 あるいは地史といふものも
それのいろいろの論料データといつしよに
(因果の時空的制約のもとに)
われわれがかんじてゐるのに過ぎません
おそらくこれから二千年もたつたころは
それ相当のちがつた地質学が流用され
相当した証拠もまた次次過去から現出し
みんなは二千年ぐらゐ前には
青ぞらいつぱいの無色な孔雀が居たとおもひ
新進の大学士たちは気圏のいちばんの上層
きらびやかな氷窒素のあたりから
すてきな化石を発掘したり
あるいは白堊紀砂岩の層面に
透明な人類の巨大な足跡を
発見するかもしれません

すべてこれらの命題は
心象や時間それ自身の性質として
第四次延長のなかで主張されます

大正十三年一月廿日

 

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プレゼンスの練習 その2 フォーカシング

先日から書いている『プレゼンス』について、大事なことを忘れていました。

ストレスケアセラピストのなつこです。

『フォーカシング』

をすることがプレゼンスの練習になります。

「神様とか仏さまとか、いると思ってな~い」という人には良いのではないかと思います。

プレゼンスの練習・・・というか、プレゼンスの状態に入ってからフォーカシングをしていくので、フォーカシングの練習をしているうちに「プレゼンス」が習慣になるという感じです。

フォーカシング (wikipedia にとびます)

以下はユージーン・ジェンドリンからフォーカシングを学んだ、アン・ワイザー・コーネルさんの本からの引用です。(引用長すぎちゃったかも。問題があったら削除いたしますのでご連絡ください。申し訳ありません)

私が変な文章を考えるよりいいかなぁと思いました・・・。私にとっては、アンさんのこれが「そう、フォーカシングってそうだよね!」という感じです。

「自分のからだで感じていることに耳を傾ける」

・・・これは、前に書いた、「日常の動作に気を配る」ことと同意になるかもしれません。
「クライエントがからだで感じていることを言葉で表現するのには時間がかかる→それを『待つ』『引き出す』トレーニングになる」ということからでしょうか。

ソマティクス指向のボディワークの先生方からは受講されるとフォーカシングの話が(たぶん)何度か出てくると思います。

『やさしいフォーカシング 自分でできるこころの処方』 発行 コスモス・ライブラリー、発売 星雲社 より

p12-

シカゴ大学のユージン・ジェンドリン教授は、「なぜ、心理療法で効果がある人と効果のない人がいるのか」という疑問から、実証的研究を始めました。かれと同僚の研究者たちは、何百という心理治療場面の録音テープを検討しました。

・・・確かに、成功した治療では、セラピストはより共感的で、より率直で、より受容的で、より鋭いようなのですが・・・しかし、実際には、セラピストの行為からは何ら有意な差は見られませんでした。どのテープでも、セラピストたちはおおむね似たようなものなのです。

P13

・・・・次に研究者たちは、テープのクライエントの部分を聴いていきました。そこのところで、なんとも魅力的な、とても重要な発見をしたのです。治療が成功だったクライエントと失敗だったクライエントには違いがあったのです。

 

p10-12, フォーカシングとは、からだを使って、自己の気づきを促し、こころを癒していく、独特のプロセスです。それはひどく単純なことです。あなたがどんなふうに感じているかに注意を向けて、その感じと会話をするのです。その会話では、あなたはほとんど聴き役にまわります。フォーカシングは、生活の中で起こっている事柄について、からだの内側で何かを感じるという、おなじみの経験から始めます。立ち上がって話し始める時、胃のあたりがざわざわする感じとか、大切な電話をかけようとすると胸がきゅーっと締めつけられる感じなど、私たちが「フェルトセンス(感じられた意味感覚)」と呼んでいるものを、-何らかの意味をもっている身体感覚のことですがーあなたはすでに経験しているわけです。

それでは、胃がざわざわする感じとか、胸がきゅーっとしめつけられる感じとか、喉が詰まった感じがする時、あなただったらどうしますか。私たち皆と同じようだったら、それをなくそうとするのでしょうね。「どうして一番大事な時に限ってこんなばかにみたいな感じになるの」といった憎まれ口をたたいたり、「私がもっとできた人間だったら、こんなふうに上がったりしないのに」と自分をけなしたり、あるいは、深呼吸を繰り返すとか、一杯飲むとか、たばこを一服吸うかもしれませんね。

もし、あなたがフォーカシングを知らなかったら、そこにある感じに耳を傾けるとか、その感じがあなたに話しかけるようにしむけるというようなことはしないわけです。

でも、あなたが感じているその感じのほうからはなしかけてもらうことができたとしましょう。そうなれば、深い深い部分、豊かに満ちている部分が開かれて、あなた自身がさらに深く豊かに変わっていくことになるでしょう。こころもからだも全部ひっくるめた自分全体の感じ、自分という全存在に備わっている深く豊かな部分が開かれるということです。そして、さらに、その感じに耳を傾けるならば、それは楽な感じにほぐれてきて、あなたがしていることをもっとはっきりさせて、迷わずまっすぐ進めるようにしてくれます。生活のこの深いところであなたを驚かせたり喜ばせたりしながら、もっともっと前向きに進むようにしてくれると思います。

フォーカシングは、このように、やさしく思いやりを込めて、こころから受けとめてあげる姿勢でからだに耳を傾け、内なる自己があなたに伝えるメッセージを聴いていく独特のプロセスです。からだの内側に貯えられている知恵に敬意を払い、からだを通してあなたに語りかけてくる微妙なレベルの気づきを知るようになるプロセスです。

からだに耳を傾けることで、洞察、身体のほぐれ、生活の前向きの変化が得られます。あなたは自分のことをもっとよくわかるようになり、もっと快適になり、そして、生活をもっと自分が望むように創造していくよう行動するようになると思います。

上記の

フォーカシングは、このように、やさしく思いやりを込めて、こころから受けとめてあげる姿勢でからだに耳を傾け、内なる自己があなたに伝えるメッセージを聴いていく独特のプロセスです。

「からだに耳を傾けていくとき」

これがプレゼンスが少しずつ深まっていくときです。深まりの差は時と場合によりますが、慣れれば電車に座っていても、立っていても、「ひとりフォーカシング」はできます。

何か月か前に書いた記事のリンクを貼っておきます。とりあえず1人で練習を試してみる時に、参考になるかなと思います。

フォーカシングのステップ0.5 『好きな人・嫌いな人』・・ココロの様子をカラダで感じる練習

フォーカシングのステップ1 『クリアリング ア スペース』

1人で試してみて、「こんなので大丈夫なのかなぁ?」と思ったら、フォーカシングの講座が開催されているところがありますので、そちらにぜひ行ってみてください。

でも、講座に参加してるうちにわかってくるのですが、みんなそれぞれ「フォーカシング」は違っています。「これが正式なフォーカシング」というフォーカシングはありません。
トレーナーの先生方もそれぞれ独特のフォーカシングをされます。

なので、1人でやっていても全然問題はないみたいな気もします。

私も、学生時代に本を読んで自分で勝手にしていて、正式に講座を受講したのは数年前でした。

東京、大阪が多いかもしれませんが・・・。

地方にもいくつかフォーカシングをお互いにする、『フォーカシングコミュニティ』ができていると聞いています。参加も無料~場所代(1回500円、1000円)程度なので、行ってみられるのも良いかと思います。

 

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